昭和41年12月02日 朝の御理解



 愈々問題が起こったり、身に都合の悪い困ったことが起こったり、そうした時に誰ではない、彼ではない、私がおかげを頂きさえすりゃいい、私がおかげ頂きさえすりゃいいと、まあこれは私のまあ流儀でもございます。私がおかげ頂きさえすりゃいい。そこんところを初代の甘木の安武先生は、「われよしと思う心を仇として、夜毎日毎に戦いてゆけ」と、云う風に教えておられますですね。われよしと思う心を仇のように思えと。そういうその心に、夜毎日毎に取り組んで行けよと云うことでございましょうね。
 私に関して、私に関連して、困ったことが起こった時に、人を責めるのではなく、自分自身を責めていくと云う訳ですね。ですから、結局、私が言う、問題は、私がおかげを頂きさえすりゃいい、私がおかげ頂きさえすりゃいいと、そういう思い方なんですね。私は、大体はその修行と云うのは、そういう修行が一番の有難い修行だと思いますね。人を責める、あげん頼んどたつに頼みがいがない。あぁ言うとったろが、と言った様なものではなくて、どうして言うこと聞かんかと云った様なことではなくてです。
 結局、われよしと思う心があるから、そう言わんならんのです。そういう時に、われよしと思う心と戦って行くと云うおかげを頂いたら、問題でなくなって来るです。そして結局は、私がおかげ頂きさえすりゃいい。私が馬鹿と阿呆で、生み出しせすりゃ良い。私が豊に大きくなりさえすりゃいいと云うことですよね。今朝、私、あれは、昼の一時頃か二時頃でしょうか、一時頃でしょうかね。何かあの、お菓子か何かの広告をテレビでやってますよね。何か私は、思うんですけれども。
 フランキーか何かて云う人の子供さんじゃないかと、私が言うぐらいに、よう似た子供ですよ。まだ五つか六つの子供が、お菓子をこう持って居るです。 そすとこちらから取ったり、こちらから取ったりされたりするのが、テレビに何回も見ましたんです。なかなか上手に演技をしてますですね、子供でも。お菓子を持ってる。それでこちらから取られると、こっち向きこっちからとこっち、両方から取られる。もうそれがそのあんまり取られてしもうて空になった。
 こうやってから、その癇癪回しよるところがその出て居りますよ。あの場面を今日又頂くんですね、御神前に。私共今日私が皆さんに申します、様々なわれよしと思う心とか、いや私がおかげ頂きさえすりゃ良いんだと云う風に言わなければならない事が、いろいろとございましょう。ございましょうけれどもです、もう本当にもうそれこそ、癇癪玉の破裂をする様な時ですたいね。本当に癇癪の一つも起こそうごたる時。女の方で云うなら、ほんにヒスの一つでも起こそうごたる時。
 そういう時が一番大事にしなければならないとでしょうね。自分の持って居るものを、あちらから取られ、こちらから取られ、ああと言うてその、癇癪回したんでは、もうそれだけのこと。癇癪を回す、なら癇癪起こそうごたろうとね。けども、あそこを、よう辛抱しなさると。な、ところからです。もう辛抱せんでもです、そのことがですね、有難いと云う様に、その事を御礼申し上げられる様な、私は時、本当の徳が頂けるのじゃないかとこう思うですね。
 癇癪玉が破裂する様な時ですね。何の為にそんなに、私にばっかり言わんならんかと。何の為に私の、そんなにして、取り上げてしまうのかと言う辺りですね。いよいよ、馬鹿と阿呆にならなければならん時であり、いよいよ、私が、おかげ頂かんならん時。まあだ、こん位のことで腹の立ちよる、この位のことで癇癪が起ころうごたる。こんなこっちゃまあだ私はおかげ受けられんのだと。と癇癪玉の起ころうごたる時を、いよいよ大事にせなければならんと云う一つの思い込みを持たないけんですね。
 はあ今こそ神様が一番、私に働きかけてござる時と思わにゃいかんですね。ところがそげん時には、もう神様も何も忘れてしもうて、それこそ癇癪玉を破裂させてしまう。これではつまらんですね。どうして今日私は、そんな事頂いたのかと自分で思うのですけれども。いよいよ今夜は、丁度、記念祭の前夜祭に当たります、善導寺の。明日が、いよいよ御大祭。私は何時も、私はそんなこと思うんですけども。私と親教会の関係の時に、そんなものをずーっと感ずるですね。何か一番自分が惨めなごとある。
 一番自分が馬鹿を見たごたる。一番自分が貧乏くじを引いておるごとある様な、もう本当に、感じになる時なんです。これはもう、親教会に何かがあると云う時には、もう絶対そうです。ところが、私はそういうたんべんにです、そのおかげで、私は何時もおかげ受けておるです。それは本当に、馬鹿らしいと云う気がする様な事もありますけどね。そこんところを、やはり思い直し思い直しさして頂きよったら、この頃はもう、思い直し思い直しせんでもです。
 本当に、おかげを頂けれる様に、段々こうなって参りました。別に私は、せり上げられとるといった様な訳ではございませんです。なるほど、信心させて頂くならですね。今日、皆さん私お願いすると云うか、皆さんに聞いて貰うたことはです。癇癪の一つも起こそうごたる時に、その事を一番大事にしなければならない。神様が一番働きかけて下さっておる時であると先ず、知らなければならない。そこんところを私、問題はね、問題は、どんな場合でも、例えば子供なら子供が言うことを聞かん。
 どうして言うこと聞かんこつか。どうして分からん奴かと、癇癪起こそうごたる前にです。私がおかげを頂きゃいい、もう神様さあさ、しっかりおかげ受けよと、しっかり豊かな心を頂けよと、こう言うてござる時なんです、その時こそ。それをその子供を責める。それで子供もおかげ頂かなければ、親もおかげ頂かん。そういう時に、例えば私が、ほんなら、私がおかげ頂きゃいいと、云うことになってくるとですたいね。私が子供がおかげ頂かんでも私が頂く。
 いいや私がおかげ頂くようになりゃ、子供も又おかげ頂くのです。そういう時に、親を親とも思わんでと云う様にです。われよしと思うその心をですね、出しますと、おかげをよう頂きません。だから、われよしと云う様な、俺は親ぞと、親を何と思うとるかと云う様な時こそ、そういう心に本気で取り組まねばならん。「われよしと思う心を仇として、夜毎日毎に戦いてゆけ」と、福岡の初代はそこんところを、四神様から「馬鹿と阿呆で道を開けよ」とこう教えて居られますね。
 問題は私がおかげ頂きゃええと、私がおかげ頂きゃええと、これなんですね。そういう様な事がです、様々な場合でございましょう。けれども、今日は特にほんとに癇癪玉ども破裂するごたる思いをする時こそです。その癇癪玉と言う、その癇癪玉を大事に大事にさせて頂く時にです、心の玉がいよいよ光輝くことになるでしょう。そういう時こそ、神様の御信用がいよいよ付く時であると。と、悟らして貰い思い込ませて貰ってです、その事を一つほんと実意丁寧に大事にしていかなければならんと思うですね。
   どうぞ。